" 1941年 6月、ドイツ軍は突如ソ連への侵攻を開始した。この年の冬にはレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を完全包囲した。この激戦の最中、市民60万人が死亡したとされる。ショスタコービッチ自身も初期の戦闘を経験した一人で、音楽院の屋上監視員の任務に就いたりしていた。第七交響曲は、ドイツ軍侵攻時に着手され、後に疎開先のクイブィシェフにて完成されたとされる。
 この作品のテーマは言うまでもなく独ソ戦にあるように見える。外国軍の侵攻とそれに抵抗するロシア、という図式において、チャイコフスキーの序曲1812年を思わせる。もっとも第7番は一時間を超える超大作で、西側連合国でも「ファシストと戦う同盟国の交響曲」と好意的に受け取られ、楽譜はマイクロフィルムでソ連から輸出された。アメリカ初演の模様はラジオで全世界に流され、もはやショスタコービッチの名声が全世界に及んでいることを示した。この交響曲が、時代の記念碑にふさわしい、正義と愛国心の象徴のように取り上げられたのは背景からもうなずける。

 だが、戦後の時の流れのなかで、これらの名声は見事に崩れ始める。作曲者自身の「証言」によると、この曲は独ソ戦最中のレニングラードを描いた訳ではなく、「スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えた」レニングラードのことを主題にしていたとされる。独ソ戦が始まる前にもソ連国内ではスターリンによって既に数え切れない人々が殺されていた。そこにナチスドイツの進軍という事件が重なってくる訳だが、これを機会に我が祖国というものを何らかのイメージで描きたいと思っても、それでスターリンの暴虐を一時棚上げしておく心境になれなかったのは理解できる。もっとも独ソ戦の過程においてもスターリンの失策や復讐劇によっておびただしい犠牲者を出していた。
 この交響曲は、現代史の重大局面と切り離しては考えられないが、曲がりくねった政治的解釈に拘束されるだけでは本質は見えてこないと思った。これは彼の交響曲全般に言えることだが。"

ショスタコービッチ:交響曲第7番ハ長調「レニングラード」 (via petapeta)